100日ダリアへの母の思い出〜農家の長女として


畑の花はマリーゴールド/100日ダリア/向日葵など

母は長野市の篠ノ井と言う地域の林檎農家の生まれですが、いつも言うのは、農家は自営業だから、毎回世情に合わせて作物や生産物を変えていると話す。その昔は農耕馬の生産農家として、羽振り良く、一時期の江戸時代には、刀帯刀を許されて、農政で松代藩に興しが迎えに来て、通う先祖が居たと屋根裏の古文書も本家の改築の際に出て来ている。林檎農家に替えたのは、第二次世界大戦が無事に収束した後の事。戦中には、米や野菜は拠出、さつま芋🍠でさえも白い品種を作り拠出して来たと話す。食べるには困らなくても米🍚は軍への拠出用で自分達は、国産の小麦粉を捏ねた水団汁で腹を満たしたのは戦中の農家でも有名な話である。戦後、わたしが初孫として、前庭の林檎の木に登り、一町歩以上ある千曲川沿いの林檎林まで、自転車に乗り探検に出たものである。その時期には、風呂は吹子で炊く五右衛門風呂に入り、ひょっとすると火傷の危険を感じながら、大家族の有り難みと温かさを感じるのだ。トイレには藁半紙の様な紙が置かれてボットん式に、炭を起こす掘り炬燵、夏には必ず蝿を取る為のコイル状のネバネバした下がり物に、ハエ叩きはあちこちにあるのが普通であった。食べ物にも栄養がある山羊を飼い、乳を飲み、鷄を飼い、卵を取り、時に肉も頂くのは特別だったと母は話す。その内にミルクの小さな一人用の瓶の配達が始まり、朝ご飯のお供に毎日一瓶を夏休みに訪問すると配られた。朝からご飯は都会ではなかなか食べきれないが三杯飯に、様々な採り立ての彩菜が数品並び、皆で箸を寄せ合い頂けたものである。台所の横の食事場に朝から家族の幸せが土間作りの女達が働くキッチンから香る白い米の匂いや、早くから野良に出た後の祖父や叔父達の食べっぷりからも団欒の楽しみと一日の始まりへの感謝がありました。


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